2006年01月08日
トルコ式白ファンク伝道師/大アリフ・マーディン伯
Turkish White Funk Preacher
Arif Mardin
*本日の「完璧なシングルを讃える会」は
「トルコ式白ファンク伝道師」
プロデューサー、アリフ・マーディン氏による数々の完璧ちゃんを是非ともぜーひとも讃えさせて下さい。
70’sのオヘソ、74年から76年にかけてファンク、ソウルの魅力を肌の色、国を股に架けることでぐっと親しみやすく気付かせてくれた大恩人がアリフさんであります。この方がもしおらなかったら、やっぱり同様のことが起こったかもそりゃ知らんけど、まったく違った肌合いになったに相違有りません。
生まれは1932年、トルコのイスタンブールにて。イスタンブール大学で学び、イギリスに渡ってロンドン経済学校に留学、音楽はあくまで趣味だったそう。1956年にトルコに戻った時、当地にツアーに来ていたジャズ・トランペッター、”膨れるホッペ”ディジー・ガレスピー氏の公演を見て大ショック、雷に打たれて俺の進むべき道はこれだと。そこは頭脳明晰さん、奨学金を得て渡米、バークリー音楽大学を61年に卒業なさった。さあ音楽業界に何とか入りたしと奔走しておりましたところ、いたーー!。しかもジャズ好きには憧れのレーベル、アトランティックに。プロデューサー、アーメット・アーティガンとゆう人が。この方もトルコはイスタンブール出身。こうゆう時同郷ってのは強いだろな。見事、兄弟の同様に重鎮、ネスヒ・アーティガン氏のアシスタントとして入社、やばい話はみんなトルコ語でってもんで、ははは。そこでジェリー・ウェクスラー氏、トム・ダウド氏ら蒼々たる面々に囲まれてのお仕事。転機が訪れましたのがジャズ同様、アトランティックの2本柱ソウルとの出会い。特に
アリサ・フランクリン嬢との数々の名作は黒のど真ん中魅力を確実にゲットした重要なものかと思う所存であります。同時にそこは異邦人、この魅力はブラックさんでしか出せないのであろうか、俺だってとりつかれたし、もしかして肌の色を超えたらもっともっと皆にわかって貰えるのでは無いかとゆう発想が。もしかしてー。ソウルの躍進と同時にどかーんと来ていたロック、素晴らしい音楽は見逃さぬアトランティックはもちろんそれも見逃さず、アリフさんにもその当時は暴挙だったかもしれん挑戦のチャンスが。
ヤング・ラスカルズとの出会いだ。見事大成功。グッド・ラヴィン&グルーヴィンの大はまりヒット。そしてかつての英国留学って経験も影響したのでしょうか、肌の色だけじゃなく海をも超えたらどうなるかとの初挑戦は、ぴったしの人材、
ダスティ・スプリングフィールド嬢で実現。
名作「Dusty in Memphis」の誕生なる。時は70’s直前の69年。70’sに入って立ち会うは
ダニー・ハサウエイ氏との遭遇。ニュー・ソウルのど真ん中!。さらにポピュラーな魅力を持ったソウルの誕生でうずうずしてた時にアトランティックにまいりましたピッタシの東部二人組、
それはオーツ&ホール。時は72年。
続く73年の「Abandoned Luncheonette」で頂点に到達した、
もう真っ黒な演奏陣にての白黒合体音楽は、売上げはあかんかったけど確実な成果をば達成したぞ。確かだ。ではさらに東に。ファルセットを自在に操るグループがいるでは無いか。それはビー・ジーズ。ちょうど低迷期に入っていたギブギブギブさんにとってこのとんでもないアイデアを持ち込んだピカチュウなトルコおじさんはどう写ったのでしょうか。何はともあれ失うものは何も無いとお仕事。出来ましたのは74年の「ミスター・ナチュラル」。成功せず。マーディンおじさんの偉いところは、製作総指揮とは言ってもけっして無理するような点は見受けられず、あくまでミュージシャンの己力をじっと見つめて、進むべき方向だけをアドバイス、出来るのを我慢して我慢して、それってプロデューサーの鑑だと思う。ですから最初は売上げ的にはたとえ失敗しても、何かを為しえた、掴んだとゆう感触で信頼厚く、さらに先に進めたのでは無いかと思います。そんなアリフさんの望みが実現した最初は思わぬとこから。
さらにソウルな場所から縁遠いとこで生まれた
アヴェレージ・ホワイト・バンド。ファンク・アレルギー濃厚なイギリスから渡って来た悲しみの天使達。既に自分達の音楽を獲得、アリフさんの思ってた世界ともピッタシだったから話は早し。最高の環境で、ちょっと後押しして上げただけで、あらあら、とてつもない名曲でいきなし全米ナンバー1だ。75年の最初のこと。インストってのもたまたまだろうけど、何かしらのアレルギーを払拭、白い人が黒くやるってことに慣れてもらうにはラッキーだったのかも。けっして最初のことではなく既にブッカーT&MG’Sで実現していたものの、でっかいイメージてのはなかなか分厚いものだろうし。一回突破すれば後は自然と風が吹きます。いよいよ大巨人ビー・ジーズのおなり。その年の6月に問題作
「ジャイブ・トーキン」
でチャート復帰。みんな、何が起こったか、信じられん目が点状態のまま、すちゃらかすちゃらか、自動車のエンジン音をヒントにしたファンキー・ビート(どんな車だったんだろう(^0^)。故障してたのかいな)に夢中。あれよあれよと7週でTOPに。音楽で高い壁を突破する一番簡単で難しい方法はとてつもなき名曲を作ることです。それをアリフおじさんの期待に答えて見事実現。続けて同じアルバム「メインコース」から
「ブロ−ドウエイの夜」
まるで憑き物がとれたかの如き、名曲攻撃なり。恐ろしきはチャート世界、多くの人の把握せざる嗜好の結果ですから、いくらいい曲でも1曲だけだと無常にもそれだけ一発屋さん扱いに。特に米チャートだと名前より曲なりなので、二曲目がその意味ではさらに重要かと。まあどれを切っても名曲揃いのアルバムだったから安心も、この曲はインパクト強大で、「本気だこいつら」と天下に知らしめたなり。10月にランクイン、最高位7位。
そして同アルバムから3曲目
「ファニー」
アルバムをもう買ってた人はにんまり、まだの人は「ビー・ジーズはやっぱメロディだよなあ。」と言っておったであろう76年に入った1月。今度はバラードです。極上メロディ、しかし昔とは確実に違う、ソウルフル、しかし黒の味わいとも別。こんなの出されたらもう文句は言えず。残された手はバンド全肯定か全否定しか無しだな。最高位12位。
76年はいよいよ世にディスコ時代到来。ぐわっとその風逃げず避けずにのジャケットが象徴的な次のアルバム「Children of the World」が9月に登場。アリフおじさんは役目を終えて、製作はビー・ジーズ自身で。こうゆうとこも偉いよなあ。なかなか出来ることじゃ無いと思う。しかしスピリッツと音楽は確実に受け継ぎ。先生、恥ずかしいものはけっして作りません。シングル第一弾は先行で7月ランクインの
「You Should Be Dancing」
本格ディスコ曲第一弾。ドラム・バスドラ4つ踏みが冒頭から高らかに。そのままじゃ何の変哲も無いリズムを、他の楽器を絡みつかせることで心臓の鼓動で行進する躍動感、もうディスコのツボを最初から鷲掴みです。当然ながら8週目で1位獲得。
2曲目のシングルは、アルバムの登場を後押しする10月に。
「Love So Right」どんなに踊ってもこれは忘れずのバラード曲。前方斜め5度上を見つめるジャケットにこれほど相応しい曲はありません。ふと気付くと妙で笑っちゃうかもしれませんスットンキョー裏声をこんなに美しく聴かせてくれるってのもマジックと才能と意志なんだろうな。
♪
彼女はまるで夜のように現れ しっかりとつかんだ
彼女が私を愛した時、世界は正しかったのだ
僕らは自由
彼女は僕を愛し始めたばかりの友達のように入ってきた
そして僕は自分の手に天国を見つけたように思い
でも見ざめた朝
僕はここに、そして彼女は行ってしまった
いまや僕は途方に暮れる
(注:ハゲになる・・でも可(^0^))
いまや多分君は言える 愛はとても正しく そして間違う存在にもなりうると
僕が近くに必要としてる時 君はいったいどこへ行ってしまったのか
最初から終わっていた完全な物語
僕は君が来てくれるものと 僕の心を打ち砕くと思っていた
いまや僕は途方に暮れる 君が戻ってきてくれるチャンスの今
何と愛は正しく 間違っているものだろう、
おおマイ・ダーリン
何と愛は正しく 間違っているものだろう、
おおマイ・ダーリン
僕はそれを身の丈で選ぶことが出来た
さしあたりやっていくしか無いけど
多分そこでは半分しか僕らは見なかったんだ
ただ目を見開いて ちゃんとありのままを見れば
それは、うん、フェアじゃないか
何と愛は正しく 間違っているものだろう、
おおマイ・ダーリン
何と愛は正しく 間違っているものだろう、
おおマイ・ダーリン
♪
wake up in the morningもののブルース歌詞だ、わ。彼女って「音楽」のようにも思えてなりません。
さて、長年の望みを最高の形で達成したアリフおじさん。この後もまだまだ活躍。黒の大道はチャカ”唇”カーン嬢と。海を渡り隊はクーン”ホット・スペース”、カルチャー・クラブ、
そして最高の80’sアリフ=スクリッティ・ポリッティ「キューピッド&サイケ85」。ソウルの命ある限り。
(山)2006/1/8
ビー・ジーズ試聴はこちらで
The English translation : please on the page here.
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えー、前に調べたんだけど忘れちゃった(^0^)。
こんどまたー。
最近、右から左にちょうちょみたいに記憶がーーー。