2006年10月18日
Before the Next Teardrop Falls / Freddy Fender 1974
Before the Next Teardrop Falls
Freddy Fender
1974
フレディ・フェンダーおじさん
1936年生まれ、
2006年10月14日6:29PM、天国ホテルにツアーに出発。
ドット盤LP裏ジャケ自筆ライナーより。
”私の本名はバルドマール・G・フエルタ。南テキサスの谷の国境の町、サン・バニートで生まれました。私はメキシカン・アメリカン、というよりテックス・メックス。私は芸名として、フレディ・フェンダー、と名付けられました。50’sの末、その名は”グリンゴ”として売り出すのに大いに役立ちました。今私はその名前が大好きです。
音楽は私の一部です。それはほんの子供の頃から。私は思い出すことが出来ます。パンチョ・ガルバンのグローシー・ストアの正面の街角に座っていたのを。私の3弦ギターを爪弾いている。誰も振り返ってくれませんでした。でも私としてはとってもその音が好きだったのです。群衆の中の小さな子供達が聴いていてくれたものです。音楽はいつだって私たちに沢山の幸せを与え続けてくれます。それは私のママが食卓にお豆料理を並べるのが難しいほど厳しい生活の時でさえ。
私たちは北へ農夫として引っ越しました。私が10歳くらいの時です。私たちはビーツのためにミシガンで働きました。ピクルスのためにオハイオで、干草の束とトマト収穫のためにインディアナで。アーカンソウで木綿収穫の時、ついに成し遂げました。私たち全員は素敵なクリスマスを”谷”でおくるために必要なだけのお金を稼ぐことが出来ました。そこではどうにかしてお願いとママに言い続けたものです。僕にギターを買って。古ぼけてぼろぼろになったやつでいいから。
16歳のとき、私はハイスクールを退学しました。そして海軍に3年間入隊しました。カルフォルニアにも行くことが出来、日本や沖縄にも。でも主に私が過ごしたのは2本マストの船の上。どうもその生活は私には合ってないと思われてしょうがなかったのです。私はいつもバラックでギターを弾いているのが好きでした。そして酒を飲んで。そんなこんなで時にここがどこだかわからなくなり、自分が誰だったかさえ。
50年代の末、サン・バニートに帰郷しました。ビアホールで演奏します。チカーノがダンスする。私の歌手としてのキャリアが始まりました。私の初期の録音は全部スペイン語のレコードとして残っています。1958年にテキサスとメキシコでこいつは有名になりました。次にテックス・メックス・ロカビリーみたいなものに挑戦しました。録音をし、「ホリー・ワン」をカットし、そして私のビッグ・ヒット「ウエステッド・デイズ・アンド・ウエステッド・ナイツ」1959年のこと。そして1960年に、私は「クレージー、クレージー、ベイビイ」をカットしました。5月まではすべてが素敵に続いていきました。1960年の5月13日の金曜日までは。私はルイジアナのバトンルージュでクスリのために破滅してしまったのです。大したことではないと思いました。しかしもし友が尋ねたら、今なお言うでしょう。私が過ごしたアンゴラ州の刑務所での3年間は小さなドジにはあまりに長い時間だったと。
刑務所での時は厳しいものでした。でも音楽がそれを慰めてくれました。私は私のベース奏者と私(いつもつるんでいたのです)がアンゴラを闊歩したのを思い出せます。服の代わりにギターとベースを持ち歩いて。その時毎週土曜日と日曜日、私たちは囚人達の為全員に溜まり場で演奏したものです。私はチカーノ・ソングのアルバムを携帯テープレコーダーで刑務所内で録音さえしました。1963年の7月、刑務所から故郷へ私は向かっていきました。長距離バスで。でもすぐさまルイジアナに逆戻り。ニュー・オリンズのバーボン・ストリートの”パパ・ジョー”で1968年まで歌っていました。そこでのことです。、ジョー・バリーやジョーイ・ロング、スキップ・エスタリング、そしてアーロン・ネビルたちツワモノたちと音楽を演奏したのは。
1969年に”谷”に戻ってまいりました。チカーノ楽団と再び演奏するために。新しい何かを学ぶ為に。私はまるであまりに古くなって捨て去った使い馴染んだ手袋を再び取り戻したような気持ちになっていました。だもんで私は工員として働く傍ら、週末には音楽を演奏しました。時給1ドル60、夜には28セント稼ぎ、だから私は飢え死にしなかったのです。私はG.E.Dテストを受けました。私のハイ・スクール、ディプロマで。カレッジに2年間通いさえしました。1974年にはテキサスのコーパス・クリスティで生活してました。友達が私にヒューイ・モーの話をしてくれました。ヒューストンから来たレコーディング・プロデューサーです。彼はBJトーマスやジョー・バリー、そして我が良き友、ダグ・ザームの何曲かの大ヒットをプロデュースしてました。彼は私の曲を気に入ってくれ、私たちはレコーディングを始めました。それはそれらセッションのうちの一つでした。私の最初のカントリー・アンド・ポップ・ヒット”ビフォア・ザ・ネクスト・ティアドロップ・フォールス”、ヒューイのクレージー・ケイジャン・レーベルから出した。
ABCのドット・レコードがそのレコードを配給し、私と契約し、それがヒューストンのカントリー専門局で当たり始めたのです。私は得意満面だったはずはありません。20年の間、挑戦し、私はようやっと最初の全国ヒット・レコードを手にすることが出来たのです!
献辞:
ラリー・ボウナック、ドット・レコード社長さんありがとう
サン・ベロー、私のマネージャーそしてビルとワンダ・ハーベイ、そして私の友、トリーニそしてニート・ボキャネグラ、大いなる気持ちを込めてありがとう。
どうもありがとう。
フレディ・フェンダー
(またの名をバルドマール・フエルタ)”
(山)2006.10.18
ろっくすフレディ父さんのページ
でかいジャケットのページ
入手先参考(US盤、試聴可能です、アマゾン)
フェンダーおじさん動画
Freddy Fender
http://www.youtube.com/watch?v=RtaPmM-LwBg
Freddy Fender 1937-2006
http://www.youtube.com/watch?v=Oqox8-q4soQ
Before The Next Teardrop Falls
http://www.youtube.com/watch?v=0gYVAO-nimM
Wasted Days and Wasted Nights
http://www.youtube.com/watch?v=uwpO0thyO54
Secret Love
http://www.youtube.com/watch?v=UHyJhcGBQAo
Texas Tornados & Freddy Fender - Who Were You Thinkin' Of
http://www.youtube.com/watch?v=J1dOY4LG1_E
The English translation page : here.
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